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2017年6月

著作権法の著作物の定義

著作物の権利が侵害されているかどうかを考えるときに、一般的には著作権法に定められた著作物であるかどうか、確認することがスタートと考えます。
(著作権法を根拠として、侵害した相手に主張するのが一般的でしょう。)

著作権法2条1項1号に、「著作物とは」が書かれています。

「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」

ですので、著作権法の定義は、

(1) 思想または感情

(2) 創作的に

(3) 表現したもの

(4) 文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの

という4つの要件を満たすこと、です。

思想または感情

熟語だけなので抽象的に思われるかもしれませんが、難しいことではありません。

作者がこのようにしないなと思って作った物は、思想または感情が表現されていますから、要件を満たします。

思想または感情が表現されていない物には、単なる事実や数値などが該当します。

創作的に

創作的にとは、作者の独特の表現があるということです。

模倣(コピー)とありふれた表現・極めて短い表現は、誰でも同じような表現になり、また、誰でも同じように解釈するので、創作的にの要件を満たしません。

表現したもの

文字・絵・音・身ぶりなどによって、表すことです。

ですので、形式、手法やアイデアだけでは、表現したものに該当しません。
(形式、手法やアイデアは、別の権利として保護対象となる場合があります。)

文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの

どこまでを文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するかと、考えますが、これも難しくありません。

思想または感情により表現されたものは、一般的に範囲に属します。

したがって、工業的に大量生産された製品自体は、原則として該当しません。
(例外があります。)

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著作権法の目的

岡田有希子さんに関する著作権について、前の投稿で少しだけ触れたので、著作権のことを書くことにしました。
(後日も、続きを書く予定です。)

著作権といえば、彼女が活動していたころには、作詞家、作曲家、写真家といったプロにかかわる権利という意識が、強かったように思います。

でも、インターネットが普及した現在は、一般の人でも発表が容易ですし、デジタル機器の発達により、複製(コピー)や改変が簡単になっています。

法律は特定の権利を守るために設けられている条文があるものですが、その条文があっても(その条文の存在があるのに)権利を守られていないケースというのが、珍しくありません。
(著作権は代表的でしょう。)

著作権を学ぶことは、単なる権利義務のためだけでなく、権利者の気持ちに配慮した著作権の取り扱いを行うためにも、重要なことだと私は考えます。

著作権を守ることの意義

人が創作したときに、その作品を大勢の人が楽しむことを、意識している場合も意識していない場合もあるでしょう。

しかし、作者以外の人がその作品に触れたときに、触れた人の精神に変化が生じる、それがまさに文化なのだと思います。
(作者も触れた人も、文化価値を認めたのです。)

作者の新たな創作と触れた人の文化価値の意識は、文化の発展を促進させます。

でも、触れた人が作者に無断で、作品(文化価値)を複製したり改変したら、どうでしょう。

作家以外の人が商業的利益を得てしまうと、作者の利益が減少するでしょう。
(作者は、創作のために使ったお金を、回収できないこともあるでしょう。)

作者は安心して創作を行うことができず、創作意欲を失っていくでしょう。

そうなると、文化の発展は滞り、作品を楽しむ機会も失われます。

これは、社会全体にとっての損失だと、私は考えます。

また、安心して創作を行うことができる社会では、たくさんの作品が発表されることで、新たな触発が生まれるという効果があります。

作品に触れた人が、その影響により、新たな作品を生み出す、ということです。
(次々に作品が発表される状況は、文化の発展ですから。)

著作物の利用を制御・調整する

著作物を守るために、権利のすべての利用条件を、作者のみ設定可能にすると、作者以外の人の触れる機会が、著しく少なくなってしまう可能性があります。

著作物の発表は、文化を発展されますから、このメリットを生かすには、一定の条件をあらかじめ設定して、著作物を利用できるようにしておくべきです。

著作権法は、作者の権利を守ることと著作物の利用を制御・調整して、釣り合いを保つための法律でもあると、私は考えます。

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岡田有希子さんのお墓にお参り

いろいろ雑用が多くて、ブログの投稿ができませんでした。
(内閣のことは、特に言いたかったことがあるのに、何も書けませんでした。)

昨日、車で名古屋南部へ行く用事があったので、足を伸ばして、岡田有希子さんのお墓に行ってきました。
(というわけで、岡田有希子さんに関する投稿が続いてしまいました。)

古い話になりますが、彼女が亡くなった場所(東京の四谷)には、あの年の11月(だったと記憶)、実家には名古屋に遺灰が戻って2、3日後(だったと記憶)に、訪れております。
(もちろん、実家は中には入らず、家の前から拝しただけですが。)

しかし、お墓には行っておりませんでした。これは、当時、お墓の情報を知らなかったということもありますが、お墓にはいっておられるのは、岡田有希子というよりも、佐藤佳代さんなのだという意識が強く、そっとしておいてあげたいという気持ちが大きかったからです。

だから、成満寺のことを知った時にも、触れることなく過ごしてきました。ただ、前回の投稿に書いたとおり、ユッコのことを深く感じてしまったために、お墓に行きたいという気持ちが強くなっていました。

また、正確には知りませんが、仏教の弔い上げに回数が近くなっているという認識もあり、いつまでもお参りをすることができなくなるかも、という考えが生じていました。

そこで、初めて、成満寺へ向かった次第です。

昨日は車のナビに従い、もう少しの所まで行ったのですが、そこからの道路がとんでもなく狭いのです\(;゚∇゚)/。

成満寺の駐車場に入ったのは、午後4時を過ぎていました。

境内に入って少し進むと、YouTubeの動画ではユッコのグッズや寄せ書きノート(?)などが置かれている納骨堂(?)という小屋がありましたが、閉じられていて中は見えません。

墓地へ入って右側奥に進むと、佐藤家のお墓がありました。

ポット(?)に入った花が、いくつも並んでいます。

ユッコ関係のことが書かれているので、彼女のお墓だとすぐに分かったのですが、目頭が熱くなりました。
(長い歳月がたっているのにね。)

当たり前のことなのに、佳代ちゃんは亡くなったんだ、ユッコはいないんだ、という言葉が心に浮かびました。

お墓に着く前には、手を合わせたらあんなこと・こんなことを念じようと、いろいろ考えていたのに、動揺してしまったようで、「やっと来ました」ぐらいのことしが、念じることができませんでした。

それでも、名残惜しくて、お墓の周りを歩いたり、無想で手を合わせたりしましたが、今日の目的は終了しました。

さて、以下はあまり長く(詳しく)書きません。
(きちんと書くと際限がありませんので、大まかにします。)

岡田有希子とかユッコとかと書いていますが、彼女の没後は、私の心の中では、佳代ちゃん(佐藤佳代さん)という意識が大きいのです。

適切ではない(全くの正解ではない)ことを承知の上で書きますが、岡田有希子という芸能人は、佳代ちゃんが演じていた役だと、言うべきなのではと思っています。

乱暴かもしれませんが、佐藤佳代さんが自ら岡田有希子を終わりにした、と書くのは、全くの間違いではないと思うのです。

自殺の原因はいろいろ言われていますが、私としては、岡田有希子であることを懸命に続けるうちに、佐藤佳代さん本来の部分が損なわれてしまったのではと、思っています。
(忙しくて、心のバランスが保たれるような私生活はなかったでしょうし、わがままも押し殺して過ごしていたのではと、思っています。)

だから、佳代ちゃんの意志(遺志ではない)を、尊重したいのです。

現在のネット上からは、彼女は芸能界でもっと活躍したかったはずだ・短い芸能活動は無念だったはずだ、という内容を見ることがありますが、私には賛同できません。
(彼女は、悩み苦しんでいたと思います。「くちびるNetwork」をテレビ番組で歌う彼女の表情を、別人のように感じませんでしたか?)

だから、今からでも盛り上げたい、という意図があるものを見ると、私には違和感があるのです。

さらに、著作権法違反と思われる画像・映像が氾濫していますが、彼女はそれを望んだでしょうか?彼女の近親は、ありがたく思っているでしょうか?

そっとしておくというのが、彼女の気持ちを大切にすることにはなりませんか?
(いつもの「独り言」を、お許しください。)

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岡田有希子さんに関する最近について(2017年6月)

4月、5月は、私の好きな岡田有希子さんの歌を、ラジオで聴く機会があった。

ここ数年、昭和の歌謡曲を流すラジオ番組が増えていると感じるが、それでも、彼女の歌声を聴く頻度が、この2か月は高かったという印象だ。
(彼女の最期は自決(誤記ではなく、書きました。)であり、その後を追う人がいたために、自由に掛けるというわけにはいかなかった、のではと考える。)

正直に言うと、私は彼女の歌声を聴くと、悲しくなることが多いので、意識的に避けてきた。
(それは、彼女のことが、ずっと好きだからであることを、分かってほしい。)

彼女の作品は、今世紀になってから、音質をCDにふさわしく変えるなどして、販売も行われているが、入手してこなかった。

だが、先月、テレビ愛知で「youは何しに日本へ?傑作選」という番組放送があり、彼女の命日のために来日したフランス人男性に関する部分を見てから、気持ちが変わった。
(彼女の「リトルプリンセス」のPVや昔の歌唱の一部を見て、心を動かされてしまった。)

31年も経過しているのに、やっぱり悲しくなった。

落ち着いていられなくなり、彼女のことをネットで検索した。

彼女に関するWebサイトで古くからあるものは、以前にも見た記憶がある一方、以前はあったWebサイトで無くなっているものがあり、これについては少し寂しい気持ちになった。
(これには、新しいコンテンツを作ることができない、管理者の気持ちが変わった、著作権上の問題が生じたなど、いろいろな理由で、閉鎖されたのであろうと思う。)

しかし、以前見たことのないWebサイト(主にブログ形式)があり、彼女への根強い関心の高さを、うかがわせた。
(内容・主張はさまざまである。)

ただ、その内容の中には、彼女の歌唱についての賛美や、彼女が存在したことについての称賛のみ(哀悼の意識は感じられなかった。)のものもあり、私の意識との違いを痛切に感じた。
(これについては、人それぞれであると思ってはいるけれど。)

そして、検索中に東海ラジオで放送されている「ドットーレ山口のドキドキラジオ'84」の内容を知ることとなった。

新聞のラジオ欄には、土曜日の深夜(日曜日の午前)1時に「ドットーレ山口」としか書かれていないので、どのような番組かは知らずにいたのである。
(「ドットーレ山口のドキドキラジオ'84」は、岡田有希子さんに関する内容を放送している。)

数回続けて聴いているが、その内容から、私のような、いまだに湿っているリスナーはいないように思われ、ちょっと寂しい気分にもなった。

岡田有希子さんは、1980年代中ごろの女性アイドル歌手だけれど、私にとっては単なるアイドルという存在ではなかったという意識なので、違うのかもしれないとも思う。

あこがれという存在だけでなく、仲間とか同志とかのような意識もあった。
(この理由を書くと、個人情報に該当することを書く必要があるし、どんどん難解になりそうなので、書かないことをご了解いただきたい。)

さらに、YouTubeの動画も見たのだが、またまた泣いてしまった。

アップロードが増えていて、見たことのない昔の映像がたくさん出てくる。

昔の家庭用のビデオを変換したものだろうから、画像や音声の質はよくないけれど、ユッコ(と言わせてください。)が動いている、しゃべっている。
(泣かずにはいられない。)

触れないように避けてきたから、私には免疫がないのだろう。

そして、私は年を取ったが、彼女は年を取らない。

私にとって彼女は、自分の娘のような年齢・状態であり、愛おしさが強くなっているのかもと思う。

おっさんが長々と何を言っていると思われるかもしれないが、岡田有希子さんについての今日の解釈のされ方に、しっくりこない感じがあったので、投稿してしまいました。
(ブログの表題が「営業・情報・独り言」ですから、独り言として許していただきたい。)

1980年~1985年ぐらいに登場した女性アイドルと、今時の女性アイドルとは、存在の意義(価値)が異なると私は考えるから、昔を知らない人には理解できないのかもしれないと思う。

岡田有希子さんについては、今後に投稿することも予想できるが、とりあえず今日はここまでとします。

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本当に無理をしないでくださいね

財津和夫さんが、大腸癌のために、休養するとの報道がありました。

財津さんの作品を初めて聴いたのは、小学校の時でしたが、当時の他の歌謡曲とか、ちょっと違う、でも、かっこいいと思いました。

中学校のころには、ギターを弾きながら、チューリップの歌を歌うようになりました。
(でも、あの伸びる高音は、自分には無理でしたが。)

私がギターやキーボードを弾くようになったのは、財津さんの存在があったからです。

現在、チューリップのコンサートツアー中で、それを中止して休養するとのことですが、本当に無理をしないでくださいね。

また、財津さんには作詞と作曲という活動方法もありますから、完全な治癒を優先してください。
(新たな作風への挑戦も、期待します。)

今の社会の矛盾に触れると、財津さんの描いた人類愛・宇宙愛を説く歌を聴きたくなります。

だから、これからの活動のために、しっかり休養してください。

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